さわぐちFMオキーステーション

幸せの鐘が鳴り響き僕はただ嬉しいふりをする

親孝行したいときに親はなし

地元の岩手県から上京して18年。何となく「親孝行」は意識していたけど行動には移せなかった。最近ふと色々と考える。

疎遠になった関係

f:id:amidaMangrove:20200929230808j:plain (小学生のころの俺と父親)

小学生~中学生までは家族で遊びにでかけたり、一緒にゲームしたり、外食することも結構多かったと思う。その証拠というか親と一緒に撮った写真はこの時期に集中している。高校に進級し遊びや行動の自由度があがったことで徐々に家族と過ごす時間の優先度は低くなっていった。気づけば会話は少なくなり余り良い関係を維持できてないまま上京。ここから疎遠が加速してく。

上京してからは親と連絡を取ることも少なくなり、「仕送り」「帰省」のタイミングくらいでしか会話することはなく、親も自分にそんな興味はないんだろうなと思ってた部分があり、積極的にコミュニケーションは取ることはしなかった。実家に帰ったら帰ったで友達を優先していたので親と過ごす時間は極端に少なく、そんな関係をダラダラと続けて今に至るという感じ。

子どもができたことによる変化

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昨年自分の子どもが生まれた。生まれた時は実感が湧かなかったけれども日々成長する表情や姿を見るたびに「あぁ、俺の子どもなんだなぁ」「がんばれ!」と実感が湧くようなってきた。

実家の両親も初孫ということで凄い喜んでくれて色々と送りものをしてくれたりgoogle photoにアップしている写真を見て反応をくれたりしている。

そんなある日、今年は実家に帰れないからとGoogleストリートビューでなんとなーく地元の風景を眺めていた。 f:id:amidaMangrove:20200929232622p:plain

で、たまたま俺が小さい頃に遊んでた公園や通学路を見た時、なんというか

「親はどういう気持ちで成長する自分を見ていたんだろう?」と深く考えるようになった。

外で遊ぶ姿、ゲームに遊ぶ姿、漫画を読む姿、色々なものに興味関心が移る自分をどういう気持ちで見ていたんだろうか?

自分の子どもができたことでグっと考えるようになった。親にとっては年を重ね成長しようが自分の子どもであることには変わりはないのだ。

そういえば俺が初めてしゃべった「パパ、ママ」って言葉を録音しててそれを後から聞かされたことを今思い出した。なんでそんなことをしていたのか今ならわかる。やっとというか親になったことで親の愛情が理解できるようになったしその尊さもわかるようになった。

もし明日、自分の両親が亡くなったら

不吉だけどこんな事を考えてみた。明日もし突然訃報が飛んできたら?考えたくもないけど確実に後悔するだろうし中々前に進めないと思う。

あと何時間親に会えるんだろう?

あと何回会話ができるんだろう?

あと何回孫に会えるんだろう?

そう考えたら急に子どもの頃の思い出が駆け巡りどうしようもなくなった。

親孝行

f:id:amidaMangrove:20200929233446j:plain (0歳くらいの俺と母親)

孫もいて両親も存命し夫婦ともに健康な今が親孝行のフルスロットルだと思い日々行動に移そうと心境を改めた。まずは両親と軽率にコミュニケーションをとろう、次はビデオチャットで孫の顔でも、些細だけど帰る頻度を少し上げてもいいかも、旅行でも連れてってみようか。恥ずかしいけど、今しかできないこともきっとある。

「親孝行したいときに親はなし」

自分の生き方をもう少し見つめなおしてみようと思った話。